コロサイ4:2-4
パウロは祈ることを勧告した後に自分のことを祈ってほしいと嘆願している。神との交わりは人の義務であるが、とりなしの祈りは自発的なものである。
勧告において「たゆみなく・・目を覚ましていなさい」という勧めはゲッセマネのキリストを思い出す。聖霊の降る前の3人の弟子たちは何とも頼りなかったであろうけれども祈りの伴に連れて祈られた。
キリストは神との交わりの先にあるとりなしの祈りを欲していたからであろう。
案の定、寝てしまった3人に、あきれてはいるが祈りを強制される事はなかった。
キリストの奥義の一つは、人を用いられることだろう。弱く情けない存在かもしれないが、成熟すれば愛を発露できる人を選ばれたことだろう。とりなしの祈りを捧げることができるから。そしてやがては、とりなしの祈り手を育てる事ができるから。
こぼれるように、とりなしの祈りが口からあふれる者でありたく願う。
